測量誌に紹介される田中舘愛橘博士

物理学者「田中舘愛橘」博士は、

1856年、陸奥国福岡こと岩手県二戸市でお生まれになりました。

 

日本を代表する世界的な物理学者で、

キュリー夫人やレントゲン、アインシュタインなど

歴史上の名だたる人物とも交流があったようです。

 

さて、(公社)日本測量協会発行の「測量」2020年9月号に、

博士についての書籍が紹介されていまして、

個人的に嬉しくなったのでブログに書きます。

 

書籍「メートル法と日本の近代化 -田中舘愛橘と原敬が描いた未来-」吉田春雄 著

本誌にて、以下のように紹介されていました。

田中舘は1878(明治11)年,東大理学部入学にあたり国家を治める道を選ぼうと思ったが、親しく尊敬していた山川健次郎(東大総長,九大初代総長)から将来は「天下国家よりも,日本で遅れている理学の方を勉強したほうがよい」といわれ,その道に進むことになる。

大学を卒業後,文部省に命じられ電気学,磁気学などの研究のため,グラスゴー大学に留学。ケルヴィンに師事。1891(明治24)年帰国し,東大教授になり地球物理学,地震学などを研究。

この著は田中舘が,日本を近代化すべく同郷の盟友原敬とともに奔走する姿を描く。原が外務書記官でパリ駐在時に田中舘がグラスゴー留学に行く途中,訪ねている。両者の友情をもとに,さまざまな度量衡が使われていた明治の日本で,メートル法に統一されてゆく過程を紹介。日露戦争時,陸軍がメートル法を用い,海軍がヤード・ポンド方を使うという度量衡の混在が弾薬不足を生んだ。そのため田中舘は陸海軍,そして伝統建築を担う宮大工の説得に乗り出し,原の助力も得て,メートル法を主たる単位系とする度量衡改正法律の公布にこぎ着けた。愛橘は専門研究のほかにローマ字の普及運動などに努めた。

また、学術団体のひとつに日本科学史学会にも参画。専門外の活動などにも参加したのは,ケルヴィンの「専門家は自分の分野だけを研究するのではなく,社会に貢献する活動もし,そうすることによって幅広い,豊かな人間になる」という教えがあったからだ。

 

それから、2018年には、以下の書籍が紹介されていました。

書籍「田中舘愛橘ものがたり -ひ孫が語る「日本物理学の祖」-」松浦明 著

田中舘は物理学者。著者によると,同時代に野口英世,植物学者の牧野富太郎,宮澤賢治と紹介。東京大学理学部物理学課を卒業後,直ちに助教授に任命される。1886年,文部省に命じられ,グラスゴー大学に留学。ケルヴィンに師事。1891(明治24)年に帰国し,東京大学教授になり,地球物理学,地震学などを研究。この年の秋,濃尾大地震があり,死者7,200人の大惨事。田中舘は,震源地で根屋谷大断層を発見。この惨状に地震研究の必要性を説き,文部省震災予防調査会の設立に尽力。そして後に東京大学地震研究所の設立にも大きく寄与。

彼は,1907(明治40)年,万国度量衡会議のアジア代表常設委員に指名されて,初めてパリでの総会に出席。以来,9回同会議に出席して世界の大勢を見極め,「日本国においてもメートル法を導入すべきだ」と関係者に説得し,1921(大正10)年に帝国議会において度量衡改正法案(メートル法)が成立。彼は留学を含めて,1888(明治21)年以降,精力的に22回の洋行をし,出席した国際会議は大小あわせて68回。交流の科学者にキューリー夫人,レントゲン,アインシュタインなどがいる。

ローマ字の普及運動,メートル法の普及活動などにも努めた。専門外の活動は,ケルヴィンの教えがあった。彼は「専門家は自分の分野だけを研究するのではなく,社会に貢献する活動もし,そうすることによって,幅広い,豊かな人間になる」と諭した。

ケルヴィンの死後,出張でロンドンに行くたびにウエストミンスター寺院に眠っている彼の墓に詣でて,恩師をしのんだという。

 

実はまだ、これらの書籍を読んでいませんでしたので、

これからの秋の夜長のおともにお迎えしたいと思います。